プロフィール

初めまして。ソラです。ご覧頂き、ありがとうございます。

50代・アラ還の専業主婦、ドイツ人の夫とドイツで暮らしています。

ソラを自己分析すると、こんな感じかと。良くも悪くも。

  • やんちゃで案外ワイルドな男前
  • 忍耐強いけど飽きっぽい
  • 好きなことをしているときの集中力はすごい
  • 面倒なことは後回しにしがち
  • 物事を考え過ぎてしまうので決断までに時間がかかる
  • 手が器用
  • 方向音痴

ソラの好きなことは、以下のとおり。

  • 青い空の下ですること全般
  • 書く&描くこと
  • 工作&手芸
  • 写真を撮ること(でも、下手くそ)
  • 旅すること(今まで行った国/ヨーロッパ13か国、アジア9か国、ハワイ島)
  • ファッションコーディネート考
  • エコに暮らすこと
  • ビールとワイン

日本にいたときは、大学で働いていました。研究と教育に没頭の日々でした。大学の定年は65歳だったのですが、定年を待たずに退職しました。

2020年の春でドイツ在住歴5年になります。ドイツに来てから、紆余曲折。

今はドイツで再就職をしたいと思っているので、ドイツ語を習いに語学学校へ通っています。

ブログをはじめようと思い立ったのは、2018年の初冬でした。でも、予想しない色々なことが起こってしまって、延び延びになっていました。

やっとこさの始動です。

始めたものの何を書いていいやら。最初は自然に自分の中から出てくることを書いていこうと思います。

もう少し詳しいプロフィールも書きました。私が50代までどんな人生だったかを振り返っています。

誕生から高校時代まで

1960年代生まれです。故郷は日本の港町です。まんまるな目が特徴のまるまるした赤ちゃんでした。

保育園のときは、おしゃれさんでした。おばあちゃんが旅先で土産に買ってきてくれた貝の首飾りを保育園にしていって、先生によく怒られていました。

てんかんを起こしたり、熱を出したりもしょっちゅうしたので、小学校に上がる前に扁桃腺を切りました。それからは、健康優良児になりました。

両親は共働きだったので、おばちゃんっ子でした。祖母とお寺へお参りに出掛けたり、縁側でどら焼きつまみに番茶を飲んだり、時代劇を一緒に見たり、そんな感じでした。

小学生のときは、理科と算数と図工が大好きでした。体育が大嫌いでした。

3年生までは、いじめられっ子でした。4年生でクラス替えがあり、いじめっ子とは別のクラス。めちゃくちゃ嬉しかったたことを今でも覚えています。小学校の卒業文集にもこのことを書いたことも。

中学生になっても、やっぱり科学と数学が大好きでした。図書館に行って、科学辞典をよく読んでいました。

部活動は、テニス部。「エースをねらえ!」ブームでテニス部員がたくさんいました。私は運動神経は悪いのですが、ダブルスで市の総合体育大会での3位に!奇跡!! その賞状は実家の座敷に今も飾ってあります。

高校は、県立高校の普通科へ進みました。部活動は、軽音楽部に所属していました。

高校時代は、どちらかといえば、引っ込み思案でした。自分に自信がなかったです。成績も悪いし、容姿も大したことないし、これらがすごくコンプレックスになっていました。

文系の科目が大嫌いでした。物理と数学は大好きだったけど。今、思えばリケ女。

高校は、同じような成績の人が集まるので、勉強しない私の成績は3年間を通して、真ん中から後ろの方でした。成績表が生徒数300人中250位くらいのときがあって、父に説教され、その後、一週間、私は父と口を聞きませんでした。

高校3年間の成績表で、地理、英文法、英作文の3つで赤点(100点満点の40点以下)をとりました。そのときの成績表には赤字で点数が。闇に葬りました(捨てました)。

そんなでしたので、大学受験もさんざん。

共通一次の受験を申し込んだのに、仮病をつかって受験しませんでした。東京の私立大学を幾つか受験しましたが、すべて桜散る、で終わりました。

地方の私立大学に一つだけ引っ掛かり、その大学に進学しました。

大学時代

大学は薬学部でした。楽しくもあり、しんどくもありでした。

午前中は講義、午後は実習。その繰り返し。実習は時には夜の9時になったこともあり、その日のうちに実習のレポートを書き、翌朝、講義の前に提出、厳しかったです。

そんな中、週末は、テニスに、BBQに、夜の街に繰り出すなど(バブル全盛でしたから)、体力の限界に挑戦していました。

でも、私は根が(多分)真面目なので、授業はどんなにひどい二日酔いでも出ていましたねぇ

私が薬学部に通っていたときは、薬学部はまだ4年制でした。それで、3年生の終盤から研究室に所属して卒業研究を始めました。

卒業研究に没頭し過ぎて、薬剤師国家試験の勉強をまったくせず、試験の約3か月前のクリスマスから焦りだすことになりました。この3か月は寝ても覚めても試験勉強をしていました。

社会人になってから

無事、薬剤師になり、一年間、病院で働きました。実家から通っていました。

働いているときに、このまま、田舎町で埋もれちゃならん!と思い、大学院へ行くことを決めました。

両親は、私には就職したので、次は結婚して家を継いでもらいたいと思っていました。大学院へ行くなどと言ったら、私は、反対されることを知っていたので、誰にも言わず、大学院を受験しました。

その合格通知、私が仕事へ行っている間に、実家に届き、祖母が勝手にその封筒を開けてしまったので、大学院へ行く野望が発覚してしまいました。

結局、両親を説得しました。私は、奨学金をもらって、学費も生活費も親からの援助なしを条件に、大学院へ行くことにしました。

大学院に進学したけど退学

研究とバイトに明け暮れる日々でした。

そんな中、1年の初夏、既に就職先が決まっている同級生の話を聞いてしまいます。私は、焦りました。

大学4年のとき、就職活動では苦労もしたし、嫌な思いもしたからです。それで、私は、大学で助手のポストの募集を見つけたら、応募しようと決めました。

運よく希望の内定をもらったので、結局、大学院を1年で退学しました。

社会人再び

大学に実験助手というポストで就職しました。当時、博士号を取得していなくても大学の研究室に教員として就職することが出来ました(今は要博士号&任期制がほどんど)。

ここから、私の長い大学教員生活が始まります。その間、薬局で働いたこともありました。

約25年、馬車馬のように働きました。しかし、まったく出世しませんでしたねぇ あっという間の50歳でした。

社会人になってからは、理不尽な思いもたくさん経験したので、それは、また、別の機会に書きたいと思っています。

ドイツに来てから

ドイツに移住を考えたきっかけは、大学で働いていたときにドイツに留学したからです。

大学時代には、海外に住んでみたいと思っていたのですが、大学教員として働き始めてからは、そんな思いも過ぎ去った遠い夢になっていました。

留学を機にドイツに住みたいと思う気持ちが膨れてきて、大きな決断をしました。ドイツ移住です。

その決断を後押ししたのは、今の夫と義父でした。今の夫とは再婚になります。元夫との間には特別な問題があったわけではありません。ドイツに移住し、新しい人生を始めると決めたから離婚の選択をしました。

ドイツで日本茶屋をオープンし、再婚しました。準備期間約1年を含めオープンしてからも、義父の協力なくしては実現できませんでした。

夫の家族は私にいつも温かく接してくれます。特に義父は私をかわいがってくれました。

義父の協力を得て、苦労してオープンした日本茶屋は今はもう存在しません。毎週のように足を運んでくれるお客様もでき始め、1年が過ぎた頃、私が体調を壊してしまったからです。

当時は、主に給仕を夫が、私はキッチンを担当していました。家族経営でしたので、私が身体を壊してしまったため、お店を続けていくことができなくなりました。

私は日本茶屋から日本食や日本の文化をドイツで発信したかったのですが、志が中途半端に終わってしまい残念に思っています。短い間でしたが、お店に来て下さったお客様には心から感謝しています。

振り返れば、50歳を越えてからの渡独は、私が思った以上の環境の変化だったようです。異国での生活、慣れない仕事、遂には更年期障害が重なり、身体に支障が生じてしまいました。

体力には自信があったのですが、年齢に伴う身体の変化には勝てなかったようです。無理をし過ぎないように年齢とうまく付き合っていくことを学ぶきっかけとなりました。

50年以上も生きたので、紆余曲折の凹凸人生でした。精神的にかなり参っていた時期もありました。それで、周りの人にたくさんの迷惑を掛けてしまいました。

私はそもそもプラス思考で、元気印な人でしたから、誰からも鬱なんて無縁って思われていました。それなのに、そんな私にも、あれほどにも精神的に追い詰められることがあるのだと身をもって知りました。

そして、復活までに2年の月日を費やしてしまいました。でも、必要だった充電期間だと思っています。

50代、既に半ば。されどまだ50代半ば。

初心に戻って、一から出直しです。人生に再挑戦中のソラなのでした。

おまけ(歴代のあだ名と似ている有名人)

あだ名の歴史

かえる

一番歴史が長いあだ名です。今も、小学校から高校までの同級生に会うとそう呼ばれています。

ペコちゃん

不二家のペコちゃんです。空を向いた低い鼻とかみの毛を2つに縛っていたことから、そう呼ばれていました。

アラレちゃん

Dr.スランプのアラレちゃんです。大学教員をしているときに、一部の学生からそう呼ばれていました。当時、童顔に黒ぶちメガネだったので。

パンダちゃん

あられちゃん同様、丸顔で黒ぶちメガネだったので。当時、よく行く居酒屋で名付けられました。

似ていると言われたことがある有名人

じゃりん子チエちゃん

性格がそっくりと言われたことがあります。大学生のときにですけど。やんちゃだからでしょうね。

レベッカのNOKKOさん

顔が似ているとよく言われました。服装も似ていたようです。20代の頃の話です。

レベッカといえば、「フレンズ」。私は、歌は下手くそなのに、カラオケにいったら、勝手に『フレンズ』が予約され、曲が流れるとマイクが渡されました(汗)

野沢直子さん

顔とノリが似ているそうです。実は、自分でも似ていると思っています。

終わりに

ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。ソラの自己紹介でした。

このブログ名『アオイソライフ』は、私が挫折したときや辛いときに、空を眺めて元気を出してきたことが由来です。

青い空の下で深呼吸。

元気を出して行きましょ!